昔住んでいた家の庭には、私の背丈くらいの梅の木があった。
もとは小さな盆栽で、
父が大切に育てていくうちに大きくなり、庭に移し替えたのだとか。
いつもこのくらいの時期には薄桃色の可愛らしい花を咲かせ、
庭をいい香りで満たした。
たまにウグイスもとまっていたし、
花が散った後には立派な実をつけた。


  引っ越す時にその梅の木も移したかったのだけど、
地面に根が張りすぎていて、無理だと言われてしまったらしく、
引っ越して以来その梅の木は見ていない。
今年もその梅は咲いているのだろうか。


  そんなことを思い出したのは、
今朝、窓を開けたら道の向かい側に数本並んだ梅の木が
満開になっているのが見えたからだ。

入れ歯

  ガールスカウト活動をしている知人たちとご飯を食べた。
私を含めて四人で集まったが、
社会人になって以来すっかり足が遠くなってしまった私を除いて、
後の三人は今でも熱心に活動をしている。


  ガールスカウトの主な活動日は土曜日、もしくは日曜日。
仕事が変わって土・日も出勤することになり、
ますますガールスカウトに参加できなくなったので、
「私事ですが転職しました。」
などと連絡をしていた。


  まぁご飯でも食べましょう、と気楽に集まったのだけど、
心の温かい人たちだから、
一応、私の転職もお祝いしてくれた。
前の会社の面白い話なども彼女たちにはしていたから、
「最終日はマルコさんどうでした?」
などと聞かれたりした。
そういえば、と、
最終日の夜に60歳を超える某男性社員の入れ歯を目撃したことを思いだした。


  引き継ぎ書類を作り終えて帰ろうとした、十時過ぎ頃のことだった。
社内にはもう4人くらいしか人が残っていなくて、
彼の近くの席にはもう誰もいなかった。
「今までお世話になりました。」
と私が挨拶にいくと、彼は口をもごもごさせていて、
ふと机の上に目をやると、上下の入れ歯がころりと置かれていた。
大事な書類の山の中にころりと置かれた入れ歯はなんとも滑稽で、
それでいながら、
なんというか人間の一部がそこに剥き出しになっているような気味の悪さもあって、
見てはいけないものを見てしまった気がした。
「入れ歯!」
と言いそうになったのを必死でこらえて見て見ぬ振りをしていたら、
彼はもうすでにそこに入れ歯が出てしまっていたにも関わらず、
隠すように私に背を向けながら入れ歯を口にはめ、
「おつかれさん」
と、取り繕った。


  元上司はワインをボトルごとラッパ飲みしていたし、
クレーム対応の男性は入れ歯を外して仕事をしていたし、
何だかもう、すごい会社だったなぁと今となっては思う。
退職の意志を告げれば、「明日から来なくていい」と言う社長。
映画やドラマの中でしか起こらないだろうと思っていた出来事が、
私の身に次から次へと降り掛かった。


  まぁ私だって、あの頃は、
先輩から勧められば、
デスクで紙コップでワインを飲みながら仕事をしていたのだけど。
異次元だったのだ。

  

その後のこと

  前の会社に、1人だけ同い年の女性がいた。
彼女は私より社歴が1年長かったので社内では敬語を使って話していたが、
会社の外では友達として話すことが多かった。
私の退職をたいへん寂しがってくれて、
退職してまだ一週間ほどなのに何度もメールや電話をくれた。


  ゆっくり電話がしたい、などと言ってくれたものだから、
休みの今日、メールを送ってみた。
すぐに返事が来たら電話でもしてみようと思っていたら、
先に向うから電話がかかってきた。
水曜の14時半頃というときっとヒマなのだろうという読みが、
あたったようだった。


  会社の人と四人で集まって、ヒマを持て余していたらしい。
隣に、誰々と誰々がいる、と、説明してくれた。
電話を順々にまわしてくれて、
みなさんと話をした。
そのうちの1人は、
昨年十月に私に取引先を引き継いだ関係で話すことも多かった男性で、
私が担当していた先のその後のことを話してくれた。
「吉田さんが抜けた穴は、吉田さんが思っていたより大きかったですよ。」
なんて言われて、少しいい気分になった。
あの人が寂しがってる、とか、
あの人もショックを受けていた、などと言われて、
「なんだ、私、割と好かれていたんだ」とちょっと得意になってしまった。
「皆、失って初めて私のことが大切になったか」なんて少し自意識過剰になってもみた。
私が担当していた取引先が、
いま誰に引き継がれているのかなどという話も聞きつつ、
これから退職するのではないかと噂されている人の話や、
新任の部長の話なども聞いた。
人の出入りが激しい会社だとは思っていたが、本当に多すぎる。


「で、いつ、戻ってくるんです?」
と、笑いながら言われて、
「戻らないですよ」
と、私も笑って返した。


  電話をした後、郵便受けを確認したら前の会社から給与明細が郵送されてきていた。
何だか不思議な気持ちになった。
きっと、そういう日だったのだ。
  

  会社のデスクで、たった一度だけ写真を撮ったことがある。
私のデスクに座って、毎日何気なく眺めていた風景だ。


  懐かしいと言うよりは、長い夢でも見ていたかのような気分だ。
思い出と言う思い出も作らないまま、
わずか十ヶ月であっという間に辞めてしまったせいだろうか。
営業先で話したこと、東京中を歩き回ったこと、
全てが、現実のことだったという気がしなくなってしまった。
確かに私はあの時間を生き、
現実に存在する人たちと話をしていたというのに、
今になってみるとまるで実感がわかない。
あれは本当に現実の出来事だったのだろうか、などと、
首を傾げてしまうような気分になるのだ。


  だけど、この写真だけは、なぜか私を、少し懐かしい気持ちにさせる。
確かにここに、私の日常があったということ。
それを唯一実感させてくれるのが、この写真なのだ。

  

電話対応とカレー

  
  今日、新しい職場に来て初めて電話をとった。
私がとる電話のほとんどは、読者からのもので、
感想から情報提供から記事への批判までそれはまぁ様々な電話がかかってくる。
記事の批判をしていたかと思いきや、突然  私への説教が始まり
「電話の感じだとあなたも若そうですけどね、
 最近の若者はポリシーがないんですよ。
 あなたたちが  しっかりしなきゃ。」
なんて言われ、
「ええ。」
と返事をしながら、
この人は今、どんな場所でどんな姿でこの電話をしているのだろうかとか、
友達はいるのだろうかとか、結婚しているのだろうかとか、
色々なことに想いを馳せてしまった。
私の横に座っていた先輩がたった一言、
「ヒマなのよ。」
と、言った。


  作家からのファックスが届くこともある。
まぁあの作家さん、こんなに字がきれいなのね、なんて思いながら、
担当の編集者にファックスを渡す。


  そろそろ昼休みだなと思っていたら、
ベテランの編集者がふらふらとやってきて
「昼食行くか」
と誘ってくださり、会社から少し離れた場所まで歩いてカレーを食べた。
ナンがふかふかで、カレーの辛さもちょうどよく、大変美味しかった。
  平日は社員食堂でお昼を食べている。
メニューが少ない代わりにびっくりするくらい安いのだ。


  編集部には様々な雑誌が置いてあって、
自社のものに限らず、幅広いジャンルで取り揃えてある。
新聞もまた同様で、六紙に加えてスポーツ紙など、各種揃っている。
編集部に運ばれてきたそれらの雑誌や新聞を管理するのが私の仕事で、
古くなった雑誌と最新の雑誌とを取り替えつつ、気になるものを読んでしまう。
普段外ではなかなか手に取らないような『フライデー』やら『ブブカ』なども読み、
最近売れているアイドルの写真などを見ている。
ちなみに今並んでいる雑誌の表紙はAKBだらけで、
中でもソロデビューした板野友美さんが特に多い。
今朝の新聞には瑛太の父について衝撃的な記事もあり、つい読みふけってしまった。


  あいている時間は、刷り上がってきたばかり発売前の記事を読んだり、
発売されたばかりの最新号に目を通したりしている。


  届いたばかりの夕刊を閲覧所に並べていたら、記者の人が話しかけてくれた。
「土、日が休みじゃなくていいの?」
と、聞かれた。
私には土、日休みの知り合いが少ないから、
今まではずっと土、日休みだったけれど何も特別なことはなかった。
だから、そんなに苦ではない。
しかもずっと私は平日休みに憧れていた。
平日の昼間に休むことほど贅沢なことはないと思っていたのだ。
だから今の所は、土、日休みではないことに不満はないのだ。

早稲田

  電車の中で、大切そうに早稲田の受験票を握りしめた男の子を見かけた。
ふと気付いて社内を見回してみると、
皆、早稲田の赤本を持ったり、英単語帳を真剣に読み込んでいたり、
受験生ばかりで、
あぁそうか、今日は早稲田の試験日なのだと思った。
かつては私も、あの中の1人だったのだ。


  前の会社では、
「早稲田を出ていてなんで  この会社なの」
と、よく言われた。
同じ会社の人からも、取引先からも。
「早稲田なのに、もったいない。」
就職氷河期だからね。」
などと、言われたものだった。


  会社を辞めて、今度は正社員と言う肩書きを捨てたとなると、
「早稲田なら別の会社で正社員をやっていた方がいいだろう」
とか、
「就職したくなかったのか」
などと、何人かに言われた。
ただ、正社員だろうとアルバイトだろうと、
なんでもいいからこの業界に身を置いていたいという人が少なくない世界なので、
おかげさまで、私もそのうちの1人として会社に受け入れられている。
確かにそうだし、言わずともそのように解釈してもらえるのは、楽だ。


  大事そうに早稲田の受験票を眺めている受験生を見ながら、
予備校に通い、早稲田に通った末、
早稲田なのにと言われながら過ごしている自分について考え、
早稲田ってなんなんだろうと思った。
みんな、なんのために早稲田に入るのだろう。


  そういえば予備校に通っていた頃、
「彩乃ちゃんだってもっと頭が良ければ東大受けたいでしょ。」
と、言われたことがある。
私は、自分の頭が良かろうと悪かろうと早稲田に入りたくて、
自分の頭がもっと良かったならもっと楽に早稲田に入れるだろうに、
なんて思っていたものだった。
彼女にそう言われたとき、カルチャーショックだったと同時に、
そんなこと言うんならもっと勉強頑張って東大狙えばいいじゃん、と思った。


  みんな、例えばブランドもののバックを持つみたいに、
早稲田と言う名前が欲しくて早稲田に入るのだとしたら、
それって何だかなぁと思った。
少なくとも私は、早稲田と言う名前が欲しくて早稲田に入ったのではない。
早稲田の中にあるものに魅力を感じて、
早稲田にしかないものや、早稲田だから集められる膨大な資料、
贅沢な授業、そういうものを満喫して卒業した。
それらを噛み締めることなく、
ただ早稲田卒業の学歴を得ることだけに満足している人たちが世の中の大半なのだとしたら、
それなら私は変わり者扱いされて結構、
自分はみんなとは違う人種でありたいと思うようになった。


  

前髪

  前髪を短くした。
多部未華子さんと同じくらい、短い。


  綾瀬はるかさんや多部未華子さんが前髪をパッツンにする前から
私は短くしたいと思っていたのだけど、
職業柄少しはばかられたのと、
あと部長からいつも
「吉田は眉毛が薄いよ。」
や、
「吉田は前髪が長い方がいいな。」
なんて言われて面倒だったことなどから、
好きな前髪にもできずにいた。


  仕事も辞めたし、よし前髪を短くするぞ、と、高田さんの所へ行った。
前回、高田さんが考案したばかりの最新の重軽前髪にしてくれて、
動きのあるなかなかいい前髪だったのだけど、
そろそろ伸びてきていたし、とにかく、パッツンにしたかったのだ。
短くしてください、と言い、切ってもらいながら、
「仕事、辞めたんですよ。
 だからパッツンにしたいなぁと思って。」
と、話をした。
「えっ!」
と驚かれた。
前回高田さんに会ったのは、確か二週間くらい前で、
「あの時は全然そんな気配がなかったから、
 今  話を聞いてびっくりしたよ。」
と、言われた。
「先週一週間で急に退職が決まって、
 それで週末で退職したから、私にとっても急だったんですよ。
 前に来た時にはすでに次の会社に履歴書は送っていたけど、
 採用は決まっていなかったし。」
などと、話をした。
出版社なんです、と言うと、
「やっぱり吉田さんは、そっち系かー」
と、納得したように言った。


  社会人になる前から知り合いだった人に仕事を辞め、
出版社で雑用をするようになったのだと話すと、
みんなから
「良かったね」
と言われる。
「合ってるよ」
とも。
正社員を捨てて時給で働くようになったというのに、
みなが一様に、「おめでとう」と言うのだ。
それが、人から見た私だったのだと、日々改めて実感している。

ホワイトバレンタイン

  会社を出る頃には雪が降り始めていて、
電車に乗っている頃には雪が大粒になり、地面には少しずつ雪が積もり始めていた。
今日はバレンタイン。
私にとっては出版社への初めての出勤日だった。
去年珈琲屋のアルバイトを辞めたのはホワイトデーのことで、
バレンタインやホワイトデーなど、
大切な日がたまたまそういうイベントの日と重なることが多いなぁと思った。


  仕事のことなどが一段落すると、
次に考えるのは恋愛についてのことで、
最近つくづく、寂しいなぁと感じている。


  というのも、
25歳の間に、周りが見えなくなるくらい夢中になる恋愛をする、
というのが夢だからだ。
私の好きな小説の一つに太宰治の『ダス・ゲマイネ』という作品がある。
その小説は、こんな書き出しで始まる。
「恋をしたのだ。そんなことは、全くはじめてであった。
 <中略>いわば手放しで、節度のない恋をした。
 好きなのだから仕様がないというしわがれたつぶやきが、私の思想の全部であった。
 二十五歳。私はいま生れた。生きている。生き、切る。私はほんとうだ。
 好きなのだから仕様がない。」
単純なのだけど、ただそれだけで、私は、
自分も25歳の間にこんな恋愛をしたいと思ったのだ。


  仕事に関しては、
編集部と言う環境が私には物珍しく、きょろきょろしているうちに1日が終わった。
出社して一番驚いたのは、
ある名物編集者が私の配属先の編集部にいて、
しかも私のすぐ後ろの席だったことだ。
社内全部所の庶務の人たちに挨拶にまわったり、
まぁ諸々のことをしているうちに、あっという間に時間が経っていた。
物腰の柔らかいいい人ばかりで、あぁこれが社風なのだろうなと思った。


  とにかく私は、嬉しくて嬉しくてしょうがないのだ。
ずっと憧れていた所に念願かなって、入り込めたのだから。
それがたとえどんな形であれ、
願った仕事内容でないとしても、その環境にいるだけで満足なのだ。