珈琲を飲みに

  御徒町のイベントでその人が一日中  珈琲を淹れると聞き、
仕事後、珈琲を飲みに行った。
そのイベントのメインは珈琲ではなくその人が撮った写真の展示だったのだけど、
私には、その人が淹れた珈琲を飲むことの方が重要だった。
行けば誰か知り合いに会うだろうと思ったし、
誰もいなくても、その人と少し話して帰ろうと思っていた。
行くとやはり何人も知り合いがいて、お久しぶりですね、なんて話しながら、
早速、珈琲をもらった。
欲を言うなら、淹れたてを飲みたかった。
少し時間が経って酸が出ていた。
ラテンアメリカの珈琲だろうかと思って聞いてみると、
モカだと言われた。


  その人がまた次の珈琲を淹れるとき、
「ドリップするところを見せてください。」
と、私が言うと、はじめその人は少し嫌がった。
「あ、じゃあ吉田が淹れる?」
と言われ、
「え、私が淹れたら意味がないですよ。」
と、思わず言ってしまった。
「私、人が珈琲淹れるところを見るのが好きなんです。」
と私が言うと、その人は仕方なさそうにいいよ、と言い、
「その人の性格が出るもんね。」
と、言った。
彼は結構大胆に、お湯をどんどんついでいた。
お湯の太さも、そんなにこだわりはないようだった。
きっとこの人、
珈琲を淹れることよりも飲むことの方が好きなんだろうなと思った。
彼も私と同じように、
誰が、どんな風に珈琲を淹れて、
そしてその珈琲はどんな味になるのか、ということに興味があるのだろう。
そんな気がする。

  
  彼とまだ知り合う前にも、私は、彼の作った雑誌を買ったことがある。
旅をテーマにした雑誌だったのだけど、
私が買ったのは、珈琲の生産地の特集の号だった。
グァテマラの号と、エチオピアの号。
グァテマラの方は岸野さんがえらく気に入って家に持って帰って読みたいと言い、
それきり、返してもらっていない。
だから私の手元には今、エチオピアの方だけ残っている。
珈琲のことを扱う雑誌や書物は世の中にごまんとある。
どれも内容は似たり寄ったり、
あとはデザインや写真の取り方、全体のバランスなどの好みで、買う本、買わない本を選ぶ。
しかしその雑誌は違っていた。
珈琲の生産地の特徴や、その珈琲の特徴などを上っ面だけで紹介するだけの雑誌や書物とは一線を画し、
どんな人がどんな風にその珈琲を作っているのか、
その珈琲がどんな環境で育まれるのかということ、文化そのものに関心を寄せてつくられていた。
こんな本を待っていた!
本屋で見つけたとき、私はそう思ったのだ。
そしてそれを岸野さんと一緒に読んで、
へー、と感心したものだ。
その人と一番最初に会ったときに、私は、自分がそんな風に感動したことを伝えたのを覚えている。
彼は、ピアノの前に座っていた。


  彼は、私がイタリア食材やワインを扱う商社にいたことも、
今は週刊誌の編集部でアルバイトをしていることも、よく知っている。
だけど、人に私を紹介するとき、たいてい
「彼女も前に珈琲屋で働いてたんだよ。」
と言う。
私は一度、珈琲屋である自分について書いた文章を、彼の前で読んだ。
きっとその印象が強いのだろう。
今日も、そんな約束していないのに、勝手に
「今度、吉田が淹れた珈琲を飲ませてもらう約束をしている」
と、その日  私が初めて会った人に言っていた。


  帰り道、私は、珈琲屋だった自分を思い出した。
そして、あの頃私が、どんな気持ちで珈琲を淹れていたのかも思い出した。
毎日当たり前のように香りをかぎ、
最近この豆は香りがいいな、とか、逆に、この豆は最近香りが弱いな、などと思いながら、
その珈琲の一番いいところを引き出そうと思いながら珈琲をドリップしていた自分を。
それから、ぼんやりと、
これから先、なんにも見つからなかったら、私は珈琲屋さんになろうと思った。