私はこういうふうにしか生きられない

 人生ってそんなご立派なものだろうかと考えていたのだけど、
エスクァイアを読んでいたら、内田樹さんがこんなことを言っていた。


   教育の場にも消費社会のこの原理が侵入してきました。学習の動機付けとして、
   努力の報酬を約束する「利益誘導」のロジックが取り入れられました。
   それから後、どんな教科や学術についても、
   「それを学ぶと何の役に立つのか?それを習得するといくらになるのか?」
   といった有用性についての問いが教育の決定基準になりました。

              (『エスクァイア』2009.4「もう一度、学校に行こう」)


 それが本当に必要かどうかは今はわからなくても、いずれ必要になるかもしれないもの、
を自分の中に取り込むことが学びであるし、また、
いずれ自分にとって死活的に必要になるものは人によって違うのだけど、
この学習はいくらになるのだろうかという功利的な思考が本来の学びを崩壊させてしまい、
いずれ出会うことになる自分のチャンスを捨ててしまっているに等しい、と内田さんは言っている。


 私が最近よく言われるのは、
「早稲田なのに」
という言葉だ。
早稲田大学を卒業していれば有名な会社で働いてそこそこの年収をもらっていて当然なのに、
吉田さんはいったい何がしたいの、というようなことを、
オブラートに包んだ柔らかい言い方で多くの人から言われる。
わけのわからない商社に入って一年も経たないうちに辞めて、
アルバイトでやっている私を見れば、
きっと多くの人がそう思うのだろう。


 どうして早稲田に行きたかったんですか、とか、
早稲田に行って良かったですか、とか、
なんだかいろいろと聞かれるけど、
なにか聞かれても人を満足させられる理由なんて何一つない。
大学はどこにしようと青柳先生に相談したら、
「彩乃は早稲田っぽい」
と言われ、その日から早稲田を目指すようになった。
ただ、それだけのことだった。
偏差値という言葉さえ知らない人間だったので、
現役の年は早稲田はおろか、受けた大学は全部不合格。
多分あの頃は偏差値45くらいだったと思う。


 「仕事いやだなぁ」
と言いながら毎日会社に行っている人は、
どうして嫌なのに毎日毎日、そうやって、会社に行くことができるのだろう、
我慢が出来るのだろうと、
不思議でならない。
私の感じる会社に対する嫌悪感と、
その人たちの感じる嫌悪感は種類が違うのか、
私には忍耐力がないのか。


  収入が無いに等しくて、
生活が不安定で、
それでも、
悲しいけれど、私は、こういうふうにしか、生きられない。
落ちこぼれでも何でも、今の生活が、私には一番いい。