女としてのセンス

 『婦人公論』の最新号に載っている、山田詠美安部譲二の対談を読んだ。
仕事中に自分の机で読んでいたのだが、
「何の記事ですか?」
と、おじいさん(記者)に話しかけられた。
山田詠美さんと安部譲二さんの対談です。」
「ほう。山田詠美さんと、安部譲二さん。
 何についての対談ですか。」
「最近、私が真剣に考えていたことなんですが。」
「はぁ、そうですか。
 何について考えてたんですか。」
「あの、
 女としてのセンスがない、っていう読者の悩みについての対談です。」
「あぁ、女としてのセンス。」
粘り強い取材をするとして一目置かれている記者だが、
答えが自分の興味のないものだともうどうでもいいようで、
特に何も言わないまま自分の席に戻っていってしまった。


  その後、給湯室で私が作業をしていると
「自分は女としてどうだろうと考え、
 ああいう記事を読んでいるだけでももう充分女らしいですよ。  
 立派ですよ。」
と、おじいさん(記者)に言われた。
あぁ、私に何と言ったらいいか考えてくれていたのだなと思った。


  ちなみに山田詠美はこの読者に対して、
女としてのセンスと言うか生きるセンスがない、と苦言を呈していた。


  つい最近、私のある発言に対して、知人の男性から、
「そんなこと言っても、甲斐性のない女としてただ印象が悪くなるだけ」
と言われた。
私は彼の歯に衣着せぬ物言いが好きで、
だから彼に何か助言を求めたくなると言うか、
私のこういう生き方に対して彼は何と言うだろうと、
いつも期待してしまうのだ。
何か自分では予想もつかない、目からウロコのようなことを言われたい。
そう思っている。


  そもそも女に甲斐性を求めるものなのか、
甲斐性なし、とは男性によく使われる言葉なのではないか、
と思わないでもない。


  女として自分は決定的に何かが欠落しているという想いが私にはある。
その欠落している何かを、
彼の「甲斐性なし発言」は鋭く指摘しているような気がした。
お前、もっと上手くやれよ、とでも言われているような。
上手く立ち回ることができず、
いつも失敗してきたから、いま、こんなことになっているのだ。