思い出

  今の職場の近くには、昔好きだった人が働いているお店がある。
彼はそこで珈琲豆を焙煎していて、
知り合ったのも、私がそこに珈琲豆を買いに行ったことがきっかけだった。
風の吹く日は、お店の前を通ると、珈琲を焙煎しているいい香りがした。
しかし、3分くらい歩くと、もうその距離では珈琲の香りはしなくった。
彼に会いに行く途中、
珈琲の香りがしてくると彼に近づいているような、そんな高揚感を覚えたものだった。


  職場は、そのお店から歩いて7、8分の所にある。
先日、会社を出てすぐの場所で、あの、懐かしい香りがした。
珈琲の香ばしい、少し焦げたような香り。
風に誘われるかのように、
仕事を始めて以来初めてお店の前を通ってみたら、
今もまだそこで彼が働いているのが見えた。
彼の姿を見るのは、3年半ぶりくらいだろうか。
まだ働いていたことに、驚いた。


  私は彼のことが本当に好きだったのだけど、
ある時ふと、彼にとって自分は暇つぶしでしかないのだと気が付いた。
彼に誘われて彼と出掛けるようになり、
毎週、彼の休みのたびに会うようになっていたから、
私は思い上がっていたのだ。
そう考えてみれば、
私のことをかわいがっているようなことを言う割に、
ぞんざいに扱われることが多くなっていたことにも納得がいった。
彼が私に少し飽き始めていることを感じた時、
捨てられるのが嫌で、私から離れて、それきり、彼とは会わなくなった。
何度もメールが来たし、電話もかかってきたけど、
どれにも応えなかった。
一年くらい彼からは連絡があったが、
私が携帯を変えてから、彼とはそれきりである。


  ばかなことをしているなぁと思いながら、
今日の休憩時間にそのお店の前を通ってみた。
ドアを閉めているのに、珈琲を焙煎しているいい香りが漏れてきていた。
私はもしかすると、
彼のことを好きでいるようなつもりでいながら、
本当はこの香りが好きだったのかもしれない。
ぼんやりと思いながら通り過ぎ、すぐ正面のお店でつぶ貝のお寿司を買った。