退職日

  最終日は一日内勤をしていてください、と上司から言われた。
一日中内勤なんて、入社初日以来だ。


  いつ辞めてもいいように机の中はきれいにしてあったので、
中から荷物を出すくらいで整理は済んだ。
よく、
生きている間に早めにお墓を買うと長生きするなんて言う。
いつ辞めてもいいように、なんて備えている人ほど長くいるんじゃないかと
私は内心考えていたけど、そうはならなかった。
本当に、あっという間に辞めてしまった。


  次に名刺の整理をした。
何枚くらいあっただろう、数えはしなかったが、かなりの量だった。
先輩との同行中にもらったものは、申し訳ないが全て然るべき方法で処理をした。
自分が担当していたお店のものは、重要なことなどを書き込み、机の上に置いておいた。
次にそこを担当する人のためだ。


  社内で一番仲の良かったマーケティング部の女性とお昼を一緒に食べる約束もしていた。
昼間はイタリアン、夜はフレンチ、というスタイルで営業している、
安くて美味しいお店があると彼女が言うので、つれていってもらった。
会社から徒歩5分くらいの場所にあるのだが、
社内の人はほとんど知らないので、彼女の隠れ家なのだという。
イタリアンなら私もいつも昼に食べてきたけれど、
五本の指に入るくらい美味しいランチだった。
「辞められて、いいなぁ。」
彼女は呟いた。


  会社に戻る途中、郵便局で便せんを買った。
会社の自分のデスクで退職願を書いた。
会社で退職願書くなんて非常識だよなー、と思ったが、
もう辞めるんだしまぁいいやと思った。
なんせ急だったので、家に無地で縦書きの便せんがなかった、
用意する時間もなかった、というのが言い訳だ。


  退職願を出した後は、ずっと、引き継ぎ書類を作った。
なんせ急な決定だったので、引き継ぎもしないまま退職になるので、
どのお店に対して私がどんなことを取り組んできて、
これからどんなことを  しようと思っていたか、
ということを誰にも伝えられないままだった。
別に私が言わなくても、次の人が次の人なりのやり方で営業していけばいいのだろうけど、
私が得た情報を引き継げば、その分時間を短縮して早く売り上げにつなげることができる。
私が3ヶ月以上かけてちまちま情報を集めて、
やっと最近、売上げにつなげたり、成果を出せるようになってきたのに、
同じお店でまた誰かが一から始めるなんて、時間の無駄だ。
だから、私が得た情報や、そのお店ごとのポイントやツボを、全てメモした。


  担当していたお店全てをリストアップしたら、それこそ1日じゃ足りないので、
重要なお店だけをリストアップした。
70軒くらいだっただろうか。


  その間に、経理の人と退職の具体的な話をしたり、
諸々の雑務をしたりして、
思っていたほど仕事ははかどらなかった。
18時ぴったりに会社を出る予定だったのに、
18時には、まだ引き継ぎ書類は半分もできあがっていなかった。


  18時をすぎると内勤の人々が帰って行ってしまうので、
ひとまず退職の挨拶をしに行った。
急なことだったので、みなさんに驚かれた。


  席に戻りまた仕事を続けていると、
私より2ヶ月ほど後に入社した、受注センターの若い女の子がやってきた。
若い女の子と言っても私と同い年なのだが、
なんせ受注センターの人たちが皆30歳を超えたベテラン陣なので、
彼女はその中じゃ飛び抜けて若い。


  彼女が、震えながら私に話しかけてきた。
「吉田さん、さっきの話なんですけど、本当なんですか。」
「はい。」
「私、まだ信じられないんですけど。
 今日が最後ってことは、来週はもう吉田さんはいないってことなんですよね。」
彼女は言った。
「はい。」
「だめです。
 辞めないでください。
 吉田さんがいなかったら、私も辞めます。
 もう続けられません。」
と言って、彼女が目に涙を溜め始めたので、慌ててキッチンに移動した。
「私、同期もいなくて、
 でも、営業だったけど吉田さんが私とほぼ同じ時期に入社してて、
 歳も同じだから、
 本当に吉田さんが心の支えで、
 辛い時も、あぁ吉田さんも頑張ってるから私も頑張ろうって、
 今までやってて…
 本当に吉田さんがいなくなったら、もう続けられません。
 もう無理です。私も辞めます。」
泣きながら彼女は言った。
びっくりした。
内勤の彼女と営業の私はほとんど話すことがなくて、
社内ですれ違えば挨拶をする程度だったのに、
まさか彼女が私をそんな風に思っていたということを、
私はそのとき初めて知ったのだ。
なんと言っていいかわからなかった。
少し嬉しかったのも事実だし、
でも、もうどうしようもないことなので、複雑な気分になってしまった。


  そんなこんながあり、他部署の課長たちから、
「よっちゃん、聞いたよ。
 急だな!」
と話しかけられ、挨拶をしたりしているうちに、気付けば21時をまわっていた。


  諸々のことが終わり、帰れる状態になったのは22時頃だった。
私の正面の席の先輩もちょうど帰るようだったので、
「一緒に帰りましょうよ。」
と珍しく私から声をかけ、一緒に帰ることになった。
そうしたら  その隣に座っていた社内一のイケメン社員も帰ると言うので、
三人で駅まで帰ることになった。
社内には他に4人だけ社員が残っていたので、
私がその人たちに最後の挨拶をしている間、
2人は先に外に出て待っていてくれた。


  元上司に挨拶をした。
入社してから12月まで私の上司だった人で、
1月からは新設された部署の課長として異動してしまった人だ。
小日向文世さんのような人で、私はこの上司が大好きだった。
もう社内に人がほとんどいなかったからだろうけど、
ワインをラッパ飲みしながら、仕事をしていた。
「あぁ、吉田さん。
 おじさん、安いワインで酔っぱらっちゃってるから、
 もう上手くしゃべれないや。
 ごめんね。」
と、赤い顔をしながら言った。
そうは言いながらも、色々と話してくれた。
最後、
「どんな仕事も、全部、闘いだから。
 競争というかね。
 ゲームと言っちゃあなんだけど、ゲームみたいなものですよ。
 あなたがこれから  やろうとしていることも、
 今までの仕事とは全く違うけど戦うと言う面では同じだからね。
 これから辛いことも多いと思うけど、
 是非戦い抜いて行ってください。」
と、言ってくれた。
  

  イケメンたちを待たせるなんて、なんて贅沢なんだ、と思いながら
急いで外に出た。
私の正面に座っていた先輩は、
チーム内で一番私に入社が近い男性社員で、
話しやすく、また私は彼から引き継いだ仕事をずっとしていたので、
話す機会も多かった人だ。
イケメンに関して言えば、
1月までずっと同じチームだった人で、
「こんなにかっこいいのに、優しくて、しかも面白い。」
と、若い女性社員みんなの憧れの的だった。
シュールで口の悪い面もあるのだが、
彼はそれも包み隠さず皆の前でそんな一面も出すので、
「そんなところが、また、いい」なんて人気に拍車をかけていた。
ご他聞に漏れず私も彼が好きで、
だけど、他の女子社員と一緒にされるのは癪なので、
社内では私は彼について話さないようにしていた。
でも私は卑怯だから、
サバの味噌煮食べましょう、とこっそり誘ったり、
うどん食べましょう、とこっそり誘ったりしていた。
気軽に誘えたのは、彼がもう結婚しているからで、
それと、
「うちの会社の女子社員て皆イタリアン大好きで、
 社内でも英語とかイタリア語でしゃべったりしてて、
 俺、たまにイラッとするんだけど、
 吉田さんが一番日本人ぽいよね。
 日本人に向かって日本人ぽいって言うのも変だけどさ。」
と、同行中に干物定食を食べながら話していたからなのだ。


  エピソードは数多くあるけれど、
私がこのイケメンの先輩を信用した一番の理由は、
彼が「スーツを着ることで自分を制御している」と言ったからなのだ。
本当はくだらないことが大好きで、会社に対して不満や疑問も数多く抱くし、
理不尽だと思うことも多いけど、
それら全てをスーツを着ることで制御して、
素直な態度を繕って会社の中での立ち居振る舞いに気を配っている、と。
その徹底ぶりといったら見事なものだった。
私は彼を見習っていたような部分があって、
ヒールを履き、ジャケットを着ることで、彼がスーツを着るのと同じような効果を得ていた。


  先輩2人と駅に向かう道々、
「で、吉田さん、どこの出版社に決まったの?」
と、聞かれた。
出版社の名前を言い、どこの部署に所属するのかも話した。
「よかったね。
 うちの会社にいるよりも、ずっと、いいじゃん。」
イケメンが言った。
もう1人の先輩も、
「中刷り見たら、吉田さんのこと考えますよ。」
と、言った。


  電車の中でイケメンと2人になったとき、彼が言った。
「いや、でも、吉田さんが辞めるって聞いた時嬉しかったよ。
 辞めるのが嬉しい、って言ったら、
 なんか吉田さんがいなくなって嬉しいみたいに聞こえちゃうけど、
 そうじゃなくて、
 出版社が決まって辞められることになって、あぁ、良かったなって。」
私は、同行中から彼には、いつか出版社に行きたいことを話していたのだ。
今の会社が嫌と言う訳ではなくて、
やっぱりどうしても、自分の好きなことをやりたいから、
いつか会社を辞めて出版社に行きたいと。
「ほんと、よかったね。
 俺も嬉しいよ。」
人のことでこんなに喜べるなんて、本当にいい人だなと思った。
  

  もう、首を傾げながら東京タワーのふもとの交差点を渡ることもない。
これでいいんだろうか、
何かが間違っているんじゃないだろうか、
四月からずっと、自分の人生に疑問を感じながら、その交差点を渡っていた。
就職氷河期、不景気、と言われるこの時代に正社員と言う立場を捨てて、
先の保証もないまま時給で働くようになることが、正しいとは思えない。
だけど私は、それでもどうしても、出版だとか文芸に憧れてしまうのだ。
一度でいいから、その中に入ってみたかった。
だから、不安も多いが、自分にはこれしかないと信じているのだ。