前髪を切る

  クリスマスを目前にして、
天皇誕生日の祭日の前日の今日、前髪を切りに行った。
それも、仕事中に。
なぜなら、どこのお店も忙しくてとてもアポイントなんてとれないからだ。
「今週一週間はどこにもアポ入れない」
と言い切った人もいた。


  午前中に秋葉原に行って一つだけ用を済ませた後、
美容院に予約を入れた。


  前回美容院に行ったのは、12月1日だった。
早めに仕事を切り上げ、7時過ぎに美容院へ行った。
何ヶ月ぶりかにパーマをかけた。
前髪にもほんのりパーマをかけたので、
「20日後くらいに前髪を切りに来て。」
と、高田さんに言われた。
普段はそんなこと言わないのに、珍しいなと思った。
だから今日、ちょうどいいやと、ふらりと前髪を切りに行ったのだ。


「久しぶりに短めにしようか。」
高田さんは言った。
「いいですよ。
 おまかせします。」
私は、いつものように言った。
会社に入るまで、私は高田さんに注文などほとんどしたことがなかった。
私よりも高田さんの方が、
私の頭や髪の毛のことをよくわかっていて、
私があれこれ注文するよりもよっぽどうまくやってくれるだろうと、
信じているからだ。
会社に入ってああだこうだと言うようになったのは、
営業職だからちょっと控えめにしておいたほうがいいだろうとか、
前髪が短いと部長に
「吉田は眉毛が薄い」
と言われたり、面倒だからだった。


  どんどん切られて行く前髪を見ながら、
「もう、なんでもいいや」
と思っていた。
私は本当は、短い前髪が好きなのだ。
長い前髪を斜めに流すのも、好きだ。
少し目にかかるくらいの長さで、重めに前髪をつくるのも好きだ。
そうやって、前髪に変化を出すのが好きだったのだ。本当は。
お金をもらって働くということが、
なぜ、髪型を規定するということになるのだろう。
ぼんやりと、そんなことを考えていた。


  初めて前髪を短くしたのは、高校三年生のときだった。
「パッツン」と呼べるくらいに短くしたのは、確か、
受験勉強が嫌だったからだ。
たいして勉強なんてしていなかったけど、
勉強をしなきゃいけないという状況がストレスで、
その鬱々とした状況を打破するために、前髪を短くした。
眉毛のはるか上で切りそろえられた私の前髪を見て、
何人かが驚いたが、高田さんは
「似合ってる」
と言った。


  前髪を短くしたら、視野が広がった気がした。
なぜだか心も軽くなった。
気持ちが晴れ晴れして、明るくなった。


  あのとき、なぜ、私は、
前髪を短くすれば心が軽くなるだろうなんて思いついたのだろう。
そしてそれは、想像した以上の効果があった。
体まで軽くなったような気がして、
心なしかいつもより足取りも軽く、歩く速度も少し早くなったような気がした。


  それ以来私は、気持ちが沈んでくると前髪を短くするようになった。
あるいは、
高田さんが前髪を短めにしたい、と言えば、
何のためらいもなくその提案に身を任せるようになった。
きっと、
人生の中で一度も前髪をパッツンにしたことがなかったら、
前髪を短くすることに抵抗を感じるだろう。
だけど、すでに私はもう何度も経験しているから、ためらわない。


  高田さんとの間で不思議なのは、
いつも、何だかタイミングが合うということだ。
髪を切ってもらいながら私が何気なく話したことが、
高田さんのプライベートでの出来事とつながって高田さんを驚かせたこともあった。
マッチ箱なんて流行ってもいなかった頃、
外でたまたま見つけた手作りのマッチ箱を高田さんにプレゼントしたら、
ちょうど高田さんも他の店でこじゃれたマッチ箱を何気なく買ったばかりだった、とか。
今年の夏、
入社してから初めて大きなクレームを受けて
そこのお店の担当をはずれなくてはいけなくなった時、
しばらく会っていなくて私の仕事のことなんて知りもしなかったのに、
高田さんから来たカードには
「仕事、ほどほどにね。」
と書いてあった。
なんで私がいま辛いことがわかるんだろう、と思った。
前からそうだった。
就職活動でつらかった時にも、
やっぱり、偶然、カードがきた。


  初めて前髪を短くしたあの時と同じくらい、鬱々としていた。
自分から
「短めにしてください」
と言わなかったのは、それは私が会社員になったからだ。
仕事のことなんて何も話していなくて、
最近私がどんな日常を過ごしているかなんて全く知らないのに、
高田さんが、私の前髪を短くしてくれた。