上司の後ろ姿


  ベンチに座っていたら、
小さな女の子が一生懸命カラスを追掛けているのが見えた。
無邪気に走り回る様子は可愛らしいのだけど、
カラスの凶暴さを知らない無知さは恐ろしい。
私みたいに歳をくって余計な知識がつくと、
カラスに目玉をつつかれてしまいそうな気がして、恐くて直視することすらできない。
私が小学生か中学生の頃、
親子がカラスに襲撃されて負傷した事件があって、
それ以来  ゴミ捨て場でカラスがゴミを荒らしていたとしても、
見て見ぬ振りをするようになった。


  昨晩  私の上司が突然
「吉田さん、明日は一日一緒にまわろう。」
と、言ってきた。
明日も公園でひなたぼっこするはずだったのに!と内心思ったのだけど、
「よろしくお願いします。
 明日は四時に大丸でアポが入ってます。」
と、返事した。
「はい。
 明日一日の予定、考えておいてね。」
と、上司は言った。


  それから私は、帰りの電車の中でもお風呂の中でも通勤の電車の中でもずっと、
その日一日の予定について考えていた。
どのお店に行って、どんな話をして。
朝、誰にアポをいれるか、などなど。
しかし会社に行ってみると、急用が入ったらしく、
「吉田さん、今日、大丸に行くのは四時だったっけ?」
と上司に言われ、はい、と答えると、
「じゃあ、そこから一緒にまわるから。
 ごめんね。」
と、言われた。
何だか拍子抜けしたが、じゃあ公園でひなたぼっこしようと、思い直した。


  四時から、上司と合流。
商談の場で、私は、安っぽい言い方だが、感動してしまった。
あぁ、これが、営業なのか!と思った。
詳細は、書けない。
だけど、柔らかい物腰、一見へりくだった言い方で、
実はごりごりと相手の懐に入り込む。
今まで私は入り込めていなかった部分にまで、入り込んでくれた。


  そして私は思った。
営業とは、氷上の釣りのようなものだと。
私は今まで氷の表面をただ撫でているだけだったけど、
上司が、今日、氷に穴をあけてくれて、釣り糸をたらしてくれた。
私はこれから、その釣り竿をしっかり握って、魚を釣り上げなくてはならない。
つまり営業とは、氷に穴をあけることなのだな、と。


「吉田さん、この後、時間ある?」
「はい」
「じゃあ一軒、挨拶に行こう。」
と言われ、東京駅の近く、ビルの36階にあるレストランへ行った。
このお店は、商談は上司がするが、
このお店に関する、商談以外の諸々の処理は私が担当、
ということになっている。
このレストランはイタリアに本店があって、しかも、星付き。
お店に行く途中、上司は言った。
「このお店は、17時にオープンして、21時には閉店します。
 他のお店より早く始まって、早く閉まるのね。
 何でだと思う?」
「ビルが閉まってしまうからですか?」
「違う。 
 よっしーの、まだ知らない世界。」
上司は言った。世間話をする時は、上司は私のことを「よっしー」と呼ぶ。
「ここはね、同伴に使われるお店なんですよ。
 銀座のクラブや、水商売のお姉ちゃんたちを、
 お金持ちのおじさんがつれていくのね。
 同伴ていうのは、おじさんたちが出勤前のお姉ちゃんとご飯を食べたりしてから、
 そのまま一緒にお店に行くことね。
 水商売のお店って言うのは六時、七時から始まるでしょ。
 その前に行くから、だから、このお店は始まるのが早いんですよ。
 残念だけど、今、日本の高いレストランて言うのはそういう使われ方が
 多くなっちゃってるんだよね。
 だって、そういうことができるおじさんしか、
 一回の食事で何万も使ったりできないでしょ。
 このお店は、普通の食事で十万いっちゃったりするからね。
 それが、日本のレストランの現状なんですよ。」
と、上司が教えてくれた。
私は、子供になったような気分でその話を聞いた。
その話をするときの上司の様子は、
子供に何かを教える父親、あるいは中学校の先生のようだったから、
私もつい、子供や生徒のような素直な態度で話を聞き入ってしまったのだ。
「やだね、大人って。」
と、上司は笑った。


  36階に着き、重たい扉を開けて高級感漂う店内に入った。
この仕事に就かなければ、私は一生ここに入ることはなかっただろう。
イタリア人のオーナーがやってくるまで、
バーカウンターの横、ふかふかのソファに座って待たされた。
窓からずっと、地面を見下ろした。
作りかけのスカイツリー
何本もの線路が平行に並んでいる東京駅、
何でも見渡せた。
「ヘイ、お兄ちゃん!」
そう言いながら、イタリア人オーナーが現れた。
彼と上司とは20年来の付き合いで、知り合った当初から必ず
「ヘイ、お兄ちゃん!」
と、呼んでくるのだと言う。
「お兄ちゃん」ではない。「ヘイ、お兄ちゃん!」なのだという。
「今日はね、彼女を紹介しにきましたよ。
 ニューフェイスね。アヤノさん。」
「はいはい、アヤノさんね。」


  レストランを出てエレベーターに乗ったとき、上司は遠くを見ながら言った。
「多分、今、日本で彼に会える営業は俺くらいだよ。
 20年前から知ってるからね。
 ほら、お店に入った時も、彼を呼んでくれと言ったらお店の人が驚いたでしょ。」
自慢する風でもない。
ただ、事実を事実として語っているだけだった。
私はその言葉を聞いたら、
あぁ、自分がそれくらいの存在価値を持つようになったら、人は、
この仕事を辞めようなんて気は起こさなくなるのだろうなと思った。