白金台


  ベンチに座ってぼんやりとしていたら、
小さな男の子がおばあさんに手を引かれながら歩いているのが見えた。
それは秋晴れの穏やかな陽気によく似合う光景で、
あぁあの様子を写真に撮りたいなぁなんて思いながら、
でも勝手に撮ったら悪いと思い、躊躇していた。
男の子は私の前を通り過ぎるとき、
眩しそうに目を細めながらも満面の笑顔で私に手を振った。
まるで、国民の前に姿を見せた時の天皇陛下のような穏やかな笑顔だった。


  今日は昨日より冷えるなぁと思いながら座っていたら、
会社の人から電話がかかってきた。
隣の席に座る同い年の女性からだ。
彼女は歳は同じだが私の一年先輩だ。
「他の人には言えないんだけど、ちょっと聞いてくれる?」
と、彼女の愚痴を聞いた。
愚痴と言えば愚痴だが、彼女はある騒動に巻き込まれてしまっていて、
話を聞けば聞くほどひどい話だった。
それはひどい話だ!と私も相づちを打った。
「今、どこにいるの?」
「白金台の公園。」
「まじで?私はさっきまで清澄白河の美術館に行ってたんだ。」
なんて話もした。
私以外の人も、会社の外で自由気ままに過ごしているのだなと思った。


  しばらく座っていたら、隣のベンチのおじいさんが
すずめ達にパンをあげはじめて、
私の目の前にも鳥が集まってきた。
すずめやハトだけのうちはまだ良かったのだけど、
しまいにはカラスまで飛んできて、いい迷惑だと思った。
私の穏やかなひとときをカラスで脅かさないでほしい。


 
  
  15時に神保町でアポをとっていた。
白金台から神保町までは三田線で一本でいける。
このお店は私が行くまでは誰も行っていなかったお店で、
多分売上げもそんなに良くないし、ワインだって沢山買ってくれるわけじゃない。
一応、先輩から引き継いだお店ではあるのだけど、
その先輩は一度もそこに行ったことがなかったようだった。


  私が行き始めた頃、ちょうどシェフがかわったばかりの頃だった。
店長とシェフとはあまりウマが合わなかったようで、
店長のいないところで、シェフから愚痴を聞かされていた。
シェフも店長も話の長い人で、行けば一時間以上かかった。
そういう関係の中で、なぜかシェフは私のことを気に入ってくれて、
クリスマスのケーキと、業務用のトマトを買ってくれるようになった。
私の売上げには全く繁栄されない話なのでもう行くのをやめたっていいのだけど、
人との関係でものが売れるとはこういことなのか、と実感したお店なので、
私も中々関係を断てずにいる。
先月くらいには店長も替わって、ワインのメニューも替わった。
内情は詳しくはわからないが、
前の店長は相当店内でのけ者になっていたのだろう。
店長が変わって以来、
お店の雰囲気もすっかりよくなって、シェフも穏やかになっていた。
新しい店長が、店長入れ替わりの激動の時期にはからずも携わってしまった私を、
これまた何故か気に入ってくれて、
新しいワインリストをほとんど私の会社のワインにしてくれた。
美味しいから、と彼は言うのだけど、
きっと私が他の会社で働いていたら、
その会社のワインを沢山使っていたのだろうと思う。
私が言いたいのは、
私がいいからとか、うちの会社のワインが本当に美味しいとかそういうことではなくて、
彼がワインメニューについて考えあぐねている時に
たまたま私が訪問して、ワインカタログを渡して、
たまたまそんな時に会社で試飲会が頻繁に行われて彼がうちの会社のワインを飲んだから、
こういう結果になったということだ。
彼がそのことを自覚しているかどうかはわからない。
本当にうちの会社のワインが彼の好みに合うのかもしれない。
でも、私は、そう思っているのだ。


  金の切れ目が縁の切れ目なんて言う言葉があって、
私はその言葉が好きではないのだけど、
このお店に行くたび、私は、その言葉が浮かぶ。
いくらトマトを使ってくれても、
いくらそこのワインメニューがうちのワインで埋め尽くされても、
実はそれは、私の成績には1円も反映されていない。
なぜなら、私が担当していない問屋から商品を買っているからだ。
会社というのは、数字が評価される場所だから、
私は本当は、このお店のために割いている1時間という時間を、
自分の数字になる他のお店にまわさなければいけないのだ。


  しかも今日は、その人たちの話が長く、
私が切り上げようとしても切り上げようとしても、
「実は吉田さんに相談が」
とか
「吉田さんに聞きたいことが」
などと言われて中々席を立つことができず、次のアポに遅刻した。
神保町から恵比寿までタクシーに乗って、
運転手さんに
「実は約束に遅れそうで急いでいるんです。」
なんて言ってタクシーをぶんぶん飛ばしてもらったのにそれでも、遅れた。
絶対に間に合うように予定を組んでいたのにそう言う結果になって悔しかった。


  恵比寿に行った後は5時半くらいに高田馬場に行こうと思っていて、
ふらっと渋谷に寄った。
両国で買った「あんこあられ」を、そこのお店の人と食べたいと思っていた。
お土産です、と言いながら、私も食べていいですか、と「あんこあられ」を
わけてもらい、イスに座って食べていたら、
「ここでサボってんの?」
とお店の人に言われた。
「5時半に高田馬場に行きたいので時間調整です。」
と、返事をした。


  こんなこと他の人は絶対にやらないだろうけど、でも私はやっちゃうんだぞー、
と思いながら行動するのが好きだ。
会社の人から怒られるような行動でも、お店の人が許してくれるのなら、いい。
許してくれていないだろうか。
迷惑がられているだろうか。
でももう、やってしまったことだから仕方ない。


  高田馬場について、あぁそうだ、と思い出し、予定していたお店に行く前に
一軒他の所をまわった。
静かな感じの店長だが私は何となくこの人が好きだ。
どんなワインを買ってもらえるか、なんて話をしていたら、
店長がその隣にいたソムリエバッジを付けた青年に話しかけた。
それまでもずっとその人は横にいて私たちのやりとりを聞いていたのだけど、
話しかけられて始めて、彼は口を開いた。
それが、想いもかけず核心を突いた、素敵な内容だった。
ソムリエの方だし今後もお話をする機会がありそうだという気がして、
「ご挨拶が遅くなりましたが。」
と、名刺を渡した。
彼の名刺も受け取ると、なんと副店長だった。
挨拶をした方が良さそうだ、という直感を信じて良かったと思った。
しかも、店長がいないときにいつも電話で話をしていた人だった。
「あぁ、お電話でよく…」
と、思わず言ってしまった。
忍成修吾を色白にしたような、きれいな顔立ちの人だった。


  忍成修吾というと、「リリィ・シュシュのすべて」の役が鮮烈すぎて、
あまり印象がよくない。
たった一本の映画で判断されて彼も迷惑だろうとは思うが。
ちなみに話題の市原隼人も、私の中ではこの映画での役のイメージが強く、
今のような活躍に少し意外さを感じてる。


  その後、本来行くはずだったお店に行った。
初めて行ったのだけど、
学生時代に何度か友達とお酒を呑んだお店のすぐ上にあった。


  会社に戻ると、今日は他の人たちがいつもより早く帰っていったので、
私も早めに仕事を切り上げてバスに乗って帰った。
早く仕事の終わった日は、
会社の前から渋谷までバスに乗り、
渋谷から二子玉川までバスに乗って帰る。
渋谷から二子玉川までのバスが好きで、
予備校生の頃からよくこのバスを使っていた。
バスに乗るのが好きだからだ。
5年前と同じことをしている自分に、少し安心した。
変わるものと、変わらないものの両方があることは、いいことだと思う。