時間への未練

  荒木経惟は、自分にとって写真とは時間への未練なのだと言っている。
私は幼い頃から、何か嬉しいことや、あるいは、
どうしても忘れたくないことがあると、文章を書きたくなった。
例えば飛行機で旅行に行ったりすると、帰りの飛行機の中ではずっと文章を書いていた。
高校三年生のときに荒木経惟のその言葉を本で知ったとき、
あぁ私にとっての文章もきっと、時間への未練なのだろうと思った。


  何気ない日常の時間の一つとして流れて行ってしまう時間が、
写真や文章を書くことによって特別な時間として日常の中から切り取られ、
枠を持ち、一つの出来事として完成する。
流れて行ってほしくない時間、忘れたくない時間を、
そうやって完成させることで、私はきっと、失わないようにしてきたのだと思う。
その時間が過去のものになってしまう寂しさや悲しみをごまかしているのだと思う。


  文章を書くのが好きです、と人に言うと、
じゃあ小説を書くんですか、と聞かれる。
だが残念ながら、私には小説が書けない。
私は時間への未練に終始して、自分のことや、実際にあるものしか書けないから、
小説が書けないのだ。
想像力が貧しいのだと思う。
でも、私が文章を書くようになった始まりが時間への未練なのだから、
小説ではないものを書くことに自分が憧れるのは、
当然のことと言えば当然なのかもしれないとも思う。

  
  今まで私が写真を撮ってきたなかで、最も荒木経惟を意識して、
時間への未練を撮ろうと思ったのは、今日のこの写真だ。
大学4年生の6月に撮ったもので、アルバイト先で、閉店後に撮った。
日曜日だったと思う。
余った珈琲豆と余った氷と余った牛乳で、岸野さんがカフェオレを作ってくれた。
普段はそんなことしないのに、
「特別ね」
と言いながら、今まで見たことない作り方で、今までになくこだわって、
カフェオレを作ってくれた。
私はその後ろ姿を見ながら、
そのうち岸野さんは他のお店に異動してもうこの水道をこんな風に使うことはなくなって、
私もそのうち、レジの内側のこの場所に立って写真を撮ることはできなくなるのだと思った。
閉館してお客様のいなくなったデパートで過ごす時間そのものが、
そもそも特別なものだった。
それで、写真を撮った。


  この前  営業中に自分が担当しているお店の前を通りかかったら、
私が作ったメニューがお店の外に飾られていた。
それ以外にも私が提案したものなどがお店の外に飾られていた。
自分の仕事が目に見える形で表れていることが嬉しく、
休みの今日、お店の人にお願いしてそれを写真に撮らせてもらった。


  写真を撮りにいく途中の道で、私は、未練について考えていた。
いつか必ずこの仕事を辞めると、心に決めている。
辞めた後も思い出せる何かを残すために、それなりに仕事を頑張っている。
辞めるために働いているようなものだ。
会社が好きではなくても、仕事が楽しくなくても、
そこに費やされる時間は他の誰でもない自分のもので、
何か一つでも、
後で時間が経って思い返した時に
満足に思えるものを残したいと思った。


  そしてぼんやりと、
あぁ私がいいと思うもの、私がやりたいと思うものは、
今の時代には流行らないなぁと思った。
誰かの死が悲しいとか、そういう事件性のあるストーリーや、
梅佳代さんの写真のようにぱっと見てわかるインパクトのある写真が、
今の主流だ。
ぱっと見ただけではわからない、
叙情的な気持ちを残そうとするような  そんなまどろっこしい作品、
時代は求めてないよなぁと。