お店


  外を歩くと、キンモクセイの香りがするようになってきた。
気のせいか、今年はいつもより香りが強い。
あぁ、秋になったんだなぁと思った。


  私は、東京都内のある場所に、3歳から13歳になる直前まで住んでいた。
家から徒歩30分くらいの場所にある私立校に通い始めたのは5歳の幼稚園の時で、
高校を卒業するまで、私はずっと同じ環境で育った。
5歳から18歳の13年間を私は世田谷の恵まれた環境の中で過ごし、
今でも自分が一番落ち着く、馴れ親しんだ土地と呼べるのはそこなのである。
また、父や母には帰る故郷はなかったし、親戚もいなかったものだから、
私にとって無条件に自分を迎え入れてくれる場所は、ただ一つ、そこだけだった。


  大学入学以来、私はほとんどその場所に行かなくなっていたのだけど、
縁あって、
通い続けた学校のすぐ近くにあるレストランを担当するようになった。
先輩から引き継いだ後に1人でそこに商談に行ったとき、
話の種に、自分がずっと通っていた学校について話した。
会社では今までずっと、自分が通った学校について話したことがなかったし、
これからも話すつもりはなかった。
「え、あの学校だったんですか。
 実は、僕の祖父はそこの小学校の校長だったんですよ。
 僕は違う学校だったけど。」
と、シェフが言った。


  昨晩、前任の先輩と一緒にそのお店の10周年記念のディナーに行った。
散々食べて、散々ワインを飲んだ後、シェフと話をした。
「吉田さん、大学はどこだったんですか?」
「早稲田です。」
「どうして、大学は外に出ようと思ったんですか?」
「中学生の頃は、本気で作家になりたいと思っていたんです。
 それで、作家になるためにはずっと同じ狭い環境にいてはだめだと思って、 
 当時とてもお世話になっていた先生に大学は外に出たいと話したら
 早稲田がいいと言われ、それで、早稲田です。」
そんな話をしていたら、先輩の社員が、
「僕も今日はじめて、彼女のこの話を聴きました。」
と、言った。
「考えすぎてしまったんです。
 寺山修司も退学したし、 
 作家はほとんど中退しているのに、私には、自信がなかった。
 通った出版社もあったのに、どうしても躊躇してしまったんです。
 そしてそこでまた、本当に好きなら飛び込んでいるはずなのに、
 ここで迷っている自分というものについて考えてしまったんです。
 あぁ、結局自分はそこまでなんだな、って。」
「考えすぎちゃったんですね。
 実は僕も、最初はデザイナーになりたかったんですよ。
 でもだめで、結局飛び込んだのが、料理の世界。」
と、シェフは言った。


  今まで会社の中では決して打ち明けずにいたことを話したのは、
ワインを飲み過ぎたせいか、
それとも、
馴れ親しんだ環境にかえってきたせいなのか。
なぜか、帰り道でセンチメンタルな気分になった。


  今日、頻繁に通っているお店に営業に行くと、
「あれ、今日なんかいつもと印象が違う。」
と、同い年の男性に言われた。
メイクがばっちりだと彼は言ったけど、
その後で、そうではなくて、何だかいつもと違うと言った。
私は黙っていたけれど、心の中ではこう想っていた。
化粧じゃない。
心が、いつもと違うのだと。