金曜日の夜


  夜、デスクで仕事をしていると、先輩から電話が入った。
イタリアのワイナリーの社長を招いて表参道でディナーをしているのだが、
カメラを会社に忘れてしまったので届けてほしい、とのことだった。


  今日中に終わらせたかった仕事が山ほどあったのだけど、
やむを得ずそれをほっぽって、
会社の前からタクシーに乗って表参道へ向かった。
カメラを届けたらそのまま帰っていいと言われていたので、荷物を全部持ってきていた。
無事にカメラを渡し、時計を見ると19時半だった。
ちょうど前髪が伸びてぼさぼさになっていたから、そのまま美容院へ行った。
結べる長さまで髪を伸ばしたいので美容院はしばらく行かない予定だったが、
前髪だけはすっきりしたかった。
キディランドの辺りから「今から大丈夫ですか?」と美容院に電話を入れ、
竹下通りを抜けて美容院へ向かった。


  20時頃だったのに、美容院は混んでいた。
金曜の夜だなぁと思った。
学生の頃、夜に美容院に来たりすると、
「あぁ皆仕事が終わって美容院に来てるんだなぁ。」
と思いながらぼんやりとOLらしき人たちを眺めていたものだ。
皆少し肩の力が抜けているように見えた。


  学生の頃は毎日が日曜日のようなものだったから、
金曜の夜や土曜、日曜だからといって特に嬉しくなったりすることもなかった。
金曜の夜の街の風景や美容院の様子から、
会社員達のある種のこの特別感を感じ取るだけで、
それは自分の実感として得られることはなく、あくまでも人のものにすぎなかった。
いざ自分が会社員になってみると、
確かに金曜の夜や土日は特別なものだった。
そしてその特別な時間は、毎週規則正しくやってくる。
学生の頃と比べて考えると、それは生活にメリハリができたということで、
学生の頃は毎日ただ漫然と過ぎていったけれど、
今は、緊張感を持ったり、力を抜いたり、自分を切り換えるようになった。


  何がどう特別なのか。
それは人によって違うのだけど、
今の私にとってみれば、金曜の夜と土日は、
誰にも拘束されずに自分の想いのままに過ごせるという点で特別だ。


  営業マンでいることは、窮屈だ。
私は今、少しずつ営業マンになろうとしている中で、窮屈さを感じている。
いつも演じなければいけないからだ。
人と人との間に常にビジネスというものを挟みながら、
さも親しいかのように付き合わなければいけない。
今までは決してしてこなかった人との付き合い方というものにストレスを感じている。


  平日は言葉の隅々まで気を使いながら人と関わっているのだとすると、
金曜の夜と土日は自分の想いのままの振る舞いや発言ができる自由な時間だ。
だから、私にとってとても特別で、開放的な時間なのである。


  そんなことを思いながら、
高校二年生の時からお世話になっている高田さんに前髪を切ってもらった。
きっと、
17歳の時から今まで、定期的に会っているのは高田さんだけだと思う。
ジャッキーとは半年くらい会わないこともあったし、
最近知り合った人では、高田さんとの関わりの長さにはかなわない。
色々な説明や前置きなしに話をしても私の言いたいことが伝わるというのは、
なんと楽で、安心感のあることか。


  誰かが何かを話すとき、
その言葉は、言葉そのものが持つ意味を超えて、
その人の感性やその人の背景などによって固有のエッセンスが加えられる。
しかしそれを感じ取るためには、その人を深く知らなくてはいけない。
何年も関わっている分、
高田さんはきっと他の人よりも
私が言葉に与えるニュアンスや背景を感じ取ってくれているはずだ。
それが嬉しく、また、安心できる。


  前髪を切ったあと、岸野さんを見に行った。
いつにも増して忙しそうだったので、声だけかけて帰ってきた。


  それから、最近よく行っている渋谷のお店にワインを届けた。
今日のセミナーで残ったワインを飲んでくださるということだった。
「飲んで行かないの?」
と言われ、ビールをもらう。
ビールを飲んでいるうちに細々と食べ物をいただいたので、
ただで帰るのも申し訳なく、メインの食べ物を頼んだ。
キッチンにいる私と同い歳の男の子がパスタを作りたいというので、
本当は明太子のお茶漬けを頼みたかったのだけど、パスタを頼んだ。
じゃあワインも飲もうかな、と、
「モワッとしているワインをください。」
と、店長に頼んだ。
ワイン売りのくせに「モワッとしている」なんて抽象的な表現もどうかと思ったが、
別に自分が売るワインの説明をしているわけでもないし、
まぁ、いいやと思った。
また、私のこの「モワッとした」という表現がどこまで人に伝わるのか、
試したくもあった。
それから間もなく店長が選んできてくれたワインは、
私が想像した通りのモワッとしたワインだった。
店長はこれを、「少しスパイシーな感じもある」と表現していた。
確かに、香りが口の両脇で膨らむ時に、少し複雑な風味が広がり、
この複雑な風味を、一般的に「スパイシー」と表現するのだろうと思った。


「このワイン、本当にモワッとしてますね。
 思っていた通りの味です。」
と私が言うと、
「でしょ。」
と、店長は言った。
「なかなか、このモワッとした、っていう表現が人に伝わらないんですけど、
 どうしてモワッとした、っていうのがわかったんですか?」
と聞くと、
「吉田ちゃんのことは何でもわかるよ。」
と、店長が言った。
冗談とはわかっていたが、言われたタイミングがタイミングだったので、嬉しかった。
本当に、嬉しかった。