彼女、まだ悩んだ顔をしていないんですよ


  あっという間に夏になっていた。
入社してから約3ヶ月半だ。
20日から一人で営業に出るようにもなった。


  やっても何の意味も無いのに、新入社員は月に1回、社長との面談がある。
会社とは実に面倒くさい場所で、
社長と話す前には一度、部長とも面談をしなくてはいけない。
面談の間、部長は平気で私のことを
「小林さん」
と名前を呼び間違えているし、
前回も前々回も聴いたのと全く同じ話をする。
もう次に部長が何と言うのかわかっているのにも関わらず、
いちいち感心したり、感謝したりするフリをしなくてはならない。


「何かある?」
と、部長が課長に話をふった。
課長だって、別にこの場で敢えて私に言うことなんて何もなかったろう。
突然話をふられて一瞬戸惑ったような表情を浮かべた後、
さすが課長、すぐに話し始めた。
「彼女、まだ悩んだ顔をしていないんですよ。」
そして、こう続けた。
「先ほど部長もおっしゃっていましたが、
 やはり入社して3ヶ月、1年、3年がヤマで、
 辞めたい、と思ったり、悩んだりつまずいたりするときが来るはずなんですよね。
 だけど彼女の様子を見てると、まだそれが来ていないんですよね。
 これから来るかもしれないですけど。」


確かに私は今、会社に対して全く何も悩んでいない。
そのうち、
とても辛くなるときがくるだろうし、
嫌になるときもくるだろう。
でも、今現在は何もない。


それはきっと、悩むほど会社に対して心を砕いていないからだ。
目の前にある仕事は真面目に取り組むようにしているし、
与えられた仕事は丁寧にやる。
セミチェーンのような大きなお店を担当して売上げを出したいと言う目標もある。
だけど、会社に対しての期待や、希望は、何故か少しも無い。


悩んだり、つまずいたりするのは、
その分そのことに対して自分の心と時間を費やしているからであって、
確かに私は随分長い時間を会社に費やしてはいるけれど、心は少しも費やしていない。
山田詠美の小説の中にこんな一節があったが、まさにそれは、
こういうことを言っているのだと思う。


     私は、自分の生活の大部分を彼のために費やしていたが、
   自分の心は、彼のために、ほとんど使っていなかった。
   

これは男と女の恋愛の話だから、
私と会社との関係にそのまま当てはまる訳ではないけれど、
私の会社に対するスタンスはこんなようなものだ。
私にとって会社とは仮の居場所でしかなくて、
例えば下田さんのトークショーに行ったり、映画を観たり、
帰るべき場所や、心の拠り所になる場所が、他に沢山ある。
だから今の所は、悩んでいないのだ。
もしかすると課長は、私のこんな部分まで見抜いているかもしれないと、ふと思った。