珈琲を飲む時間


  岸野さんがまだ異動する前、
土曜や日曜に二人で閉店作業をしたりすると、
その後は大抵七階に行って珈琲を飲んでいた。
閉店後に初めて七階に行った時のことを、私は今でも忘れない。
私がまだお店に入って一ヶ月くらいしか経っていない頃の、
九月の日曜日の夜だった。
当時七階にいて私も大変お世話になった店長さんが異動する日のことで、
「今日、宇崎さん最後だし、行く?」
と誘われたのだ。
そう言われたとき、私はもう、宇崎さんはとっくに仕事からあがって
アルバイトの人たちと送別会に参加していることを知っていたのだけど、
そのことに気付かないフリをして、
「行きましょう。」
と、返事をした。
七階に行くと、案の定
「宇崎さんはもう送別会に行っちゃったよ。」
と、言われた。
テラス席でさっちゃんが一人でタバコをふかしていた。
私はさっちゃんの方へ行った。
岸野さんもついてきて、その後、三人で珈琲を飲んだ。
「一番お世話になったのは私なのに、最後、ちゃんと挨拶ができなかった。」
と さっちゃんが言い、私は、何も言えなくなってしまった。
「わかってくれてるよ。」
岸野さんは言った。


  それから、夜になると
「七階行く?」
と、岸野さんから声をかけてくださるようになり、
ほぼ毎週末、私は仕事後に岸野さんと七階で珈琲を飲んだ。


  私はそのことについて何とも思っていなかったのだけど、
社会人になってレストランへ営業にいく仕事に就いてみて、
岸野さんのあの行動にどんな意味があったのか、よくわかってきた。
きっと、岸野さん一人で珈琲を飲み行っていてもあまり意味がなかったのだ。
岸野さんが地下一階のお店のアルバイトパートナーを連れて行き、
そこで七階のアルバイトの人たちとコミュニケーションをとりながら
珈琲を飲むということに、意味があったのだ。
押し付けがましいことはしない店長だったから(あるいは不器用だから)
そんなことは一度も口にしなかったけれど、
今になってみて、そんなことに気が付いた。
ただ七階に行って飲み物をもらって帰ってくるだけでなく、
七階で時間を過ごすことで、七階の人たちと信頼関係を築いていっていたのだ。


  そんなことに気付いたのは、会社の先輩のある言葉だった。
「吉田さんを利用する訳ではないんだけどね、
 ちょっと足が遠くなっちゃって最近あまりお会いしていないお店に行く時とかに、
 『今日は新人をつれてきました』なんて言ってそこでランチをしたりしたら、
 お店の人も喜ぶじゃない。
 だから、同行の日に、ちょっと足が遠くなっちゃってるお店で  
 ランチをとったりしてもいい?」
私がこれからやろうとしている営業の仕事は、
レストランにワインや食材を売り込みにいく仕事なのだけど、
そのレストランにはどんなものを売れそうか知るためにも、
さらに、
お店の人と関係を築くためにも、
ランチやディナーでそのお店に食べにいくといいとすすめられた。


  岸野さんが七階につれていってくださったおかげで、
私は一度辞めてしまって足が遠くなっていた七階にもう一度気楽に行けるようになったし、
私だけではなく、
地下一階の従業員全員が、七階の人と馴染めるようになった。
岸野さんは七階との連携ということを目標にされていたが、
七階と連携するために岸野さんがしていたことは、
今後の私の仕事でも役立っていくことだろうと思った。
間近でそれを見ていて、
自分も知らず知らずのうちにそういう行動をとっていたことを思い返してみて、
働いていく上で大切なことを、
私は随分たくさん岸野さんから教わっていたことに気が付いた。


  実はそれは、岸野さんが異動されてからずっと感じていたことだった。
岸野さんがいなくなるのと共に、
私は一人でお店に立つ時間が増え、
今まで何ともなしに岸野さんがやっていたことや言っていたことなどを思い出した。
マニュアルのどこにも書いていなくて、敢えて誰も教えたりはしないけれど、
皆が気持ち良く働いていくために大切なことを、
私は随分沢山教わっていたのだと気が付いた。
それは言葉にして伝えられたのではなく、
長い時間お店で過ごして岸野さんの働いている姿を見ながら、
知らず知らずのうちに見て学んだことだった。
たとえこれからどんな種類の仕事に就いたとしても、
ここで教わったことは大いに役立っていくだろうと思った。
就職が決まったとき、まず最初に岸野さんに
「私が一人で営業に行くようになって自分の担当のレストランを持って、
 初めて仕事をとったお店に岸野さんを招待します。」
と言ったけれど、それは、そういう感謝の気持ちがあったからなのだ。