いつか返す


  そんなに沢山ではないがお給料をもらった。
お給料のうち5万円を家に納める約束になっていたので、
それはすぐに母に渡した。
ちなみに最近 雑誌で、
実家暮らしの20代のOL110人を対象にした、
実家にいくら入れているかのアンケートを見たが、
約半数が3万円、その次に多いのが2万円だった。
人それぞれ稼ぎも違うから沢山お金を入れることが立派だとは思わないし、
こんなに沢山請求してくる親を恨んでいるわけでもない。
ただ、「あーあ」と思ってしまう時もある。


  4月は誰にとっても何かとお金が入り用な月で、
私はやはり仕事着や靴、仕事用のカバンなど、色々なものにお金がかかった。
今も充分に揃えきれているわけではない。
大学生の弟もまた入り用なようで、
朝や夜に金銭の問題で母と頻繁に喧嘩している。
教科書代に定期代、部活に必要なお金、母に堂々と請求しているお金の他にも、
新歓に必要なお金や、その他諸々、色々あるだろう。
部活をしているので、弟はほとんどバイトをしていない。
周りはお金に不自由のない子供が多いので、親からもらっているのだろう。
残念ながらうちは、
私の5万円がなければ成り立たないような家計なので、
母は弟に自由にお金を与えることができない。


  私が大学時代にバイトに明け暮れていたのも、
バイトが楽しかったのももちろん理由の一つだが、お金がほしかったからだ。
定期代も教科書代も、就職活動にかかったお金も、全部自分で払っていた。
そういうことだけにお金が消えて行く事が悔しくて、
何とか娯楽にもお金を自由に使いたくて、その分余計に働いていた面もある。
お金が欲しければ弟もバイトをすればいいと人は言うかもしれないが、
弟にとって部活やテニスは、お金を犠牲にしてでも続けるべき大切なものなのだ。
勉強が嫌いで、留年するだの、進学できないだの、
中学や高校の教師から散々説教をされてきた弟が真っ当な道を歩み続けて、
留年する事もなくおまけに奇跡的に大学に進学できたのも、テニスのおかげだった。
テニスに打ち込む事で弟は道を踏み外す事もなかったし、
テニス部の先輩や先生の支えや協力のおかげで、弟は大学に上がれた。
テニスを失ってお金を得るくらいなら、
親と喧嘩をしながらでもテニスを続けていた方がよっぽどいいだろうと、
私は端から見守っている。
私にはテニスも何もなかったから、
沢山アルバイトをして、写真を撮ったり気が向いた時に映画を観たり、好きな雑誌や本を読み、
友達とお酒を呑んだりすることで、精神的な充実を得ていたのだと思う。


  私と弟の間にほとんど会話はない。
昔は弟は愛嬌たっぷりに私につきまとって来たものだが、
あの頃私が邪見に扱いすぎて、
ある時から弟は私が話しかけても無視するようになってしまった。
弟が大学生になり、最近やっと、一言二言話すようになってきた。
しかしそれも必要最低限の会話ばかりで、
「パソコン貸して」

「プリンター貸して」
など、そんな内容だ。
しかし、これでもマシになった方なのだ。
3年くらい前だったら、
私のパソコンを使うことすら嫌がり、弟が私から何かを借りることなど考えられなかった。


  私には常に、過去に弟をぞんざいに扱いすぎたことの後悔と、
今の弟の不遇な状況に対する同情がある。
それと同時に、
この状況を共有するただ一人の存在として、
何かこう、支えにしているというか、自分の理解者というか、
唯一わかり合える存在のように思っている。




  朝、母が起きてくる前に弟にお小遣いをあげた。
「そこに置いてある5000円あげるから、好きに使いな。」
手渡しは、何だか気恥ずかしかった。
「何で?」
「今月、新歓とかでお金がないでしょ。」
「あぁ、ありがとう。」
しばらく経ってから、弟は私に背を向けたまま、
「いつか返す。」
と、言った。
「うん。」
と私は言ったが、別に返さなくていいと思っていた。


  夏目漱石の『坊っちゃん』に、坊っちゃんが清からお金を借りる場面がある。


    これはずっと後の事であるが金を三円ばかり貸してくれた事さえある。何も貸せと云った訳ではない。
    向で部屋へ持って来て御小遣がなくて御困りでしょう、御使いなさいと云ってくれたんだ。おれは
    無論いらないと云ったが、是非使えと云うから、借りて置いた。実は大変嬉しかった。<中略>
    この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。


  別に特別『坊っちゃん』が好きなわけではないのだが、なぜかこの場面を私はよく覚えていて、
弟に
「いつか返す。」
と言われたとき、この場面を思い出していたのである。