いま、まさに、この場所で

  役者をやっている友人がいる。
彼女が所属する劇団が、低予算で実験的な公演をするということになり、
私の知り合いの映像研究をしている男性に、ビデオ撮影のオファーがかかった。


  彼女と彼は、
私がいなくたってそのうち知り合っていたかもしれないけれど、
たまたま私が、知り合うきっかけを作った。
大学の授業で知り合ったばかりだった彼を誘って、
彼女が出ていた芝居を観に行ったのだ。


  それから何ヶ月も経たない頃、
彼が何かのアルバイトで芝居のビデオ撮影に行ったら、
たまたま彼女がそこに手伝いに来ていて、再会した。
「偶然会ったよ!」
と彼からわざわざメールが来たのを、今でも覚えている。
わざわざ私にメールをするくらい、
彼にとっても印象的な出来事だったのだろう。
私を介して知り合った人と、
私とは全く関係のない所で遭遇したのだから。


  それから三人でまた会ったのは、
彼女が公演のチラシ用の写真を撮らなくてはならなくなった時だった。
彼女が写真を撮ってくれる人を探していて、
私が、じゃあ彼は、と彼に連絡したら、彼が快諾してくれたのだ。


  そうするうちに彼と彼女が直接連絡を取るようになって、
そして今回、彼女は、
低予算の実験的な公演にあたり、映像の記録を彼に頼んだらしい。
そんなこと私は全く知らなかったのだけど、
彼から
「テープを替えるのを手伝って」
と連絡がきた。
私でよければ、ということで、私は彼の助手として参加した。


  彼はカメラを2台用意していた。
1台は固定カメラ。
私は、このカメラのテープを交換するために呼ばれたのだ。
もう1台は彼が動かし、表情をアップにしたりしながら撮るためのものだった。


  座席の一番後ろで、
私は芝居を観ながら、
彼のカメラのモニターも時々見た。
広い舞台の一部分を切り取り、そこにフォーカスする。
私は、彼が切り取った一部分を見つめると同時に、
彼が切り捨ててしまった他の大部分も見つめると言う、
珍しい体験をした。
そして改めて、
写真や、映像を撮るということは、
今そこにある事実を撮っていながら、
もうすでに自分の意図や趣向を含めてしまう、
とても恣意的な行為なのだと感じた。
カメラという機械を自在に操り、そこにあるものを自分の作品に変える彼を、
私は羨ましく思った。
あぁ私もこんな風に、何かを想い通りにつくれたらいいのにと思った。

 
  今まさにここで、作品が創られているのだ。
カメラを動かす彼を観ながら、うっすら、そんな感動を感じていた。


  考えてみれば私は、
彼が創りあげた作品を一度も観たことがない。
創っている途中の物は、何度も目を通したことがある。
作品の構想を聴いたこともある。
でも、そういえば、できあがったものは一度も観たことがない。
彼が創った物よりも、
彼が何かを創っているということそのこと自体に、興味があるのかもしれない。


  写真は、夏にこっそり撮ったものだ。
会社が夏休みの間、彼がサルスベリを撮りに行くのついていった時のものだ。